国分寺を潤した命の水路 – 本多用水 知られざる物語
【第1回】 乾いた大地、水の叫び ~用水はなぜ必要だったのか?~
木々の緑が豊かで、落ち着いた佇まいを見せる東京都国分寺市。駅から少し歩けば、かつての武蔵野の面影を感じさせる場所にも出会えます。しかし、今では想像しにくいかもしれませんが、江戸時代のこの地、特に市の北部に広がる台地エリアは、人々が常に「水」に渇望する、厳しい土地柄でした。
一体なぜ、水が足りなかったのでしょうか? そして、その渇きは人々の暮らしにどのような影を落としていたのでしょうか。壮大な本多用水開削の物語を紐解く前に、まずはその背景となった、当時の国分寺村が抱えていた深刻な水問題に目を向けてみましょう。
武蔵野台地の宿命
国分寺市が位置する武蔵野台地は、多摩川が長い年月をかけて作り上げた広大な扇状地です。その地表は、火山灰が降り積もってできた「関東ローム層」に厚く覆われています。この土壌は水を通しやすく、雨水はすぐに地下深くに浸透してしまいます。そのため、大きな川が少なく、井戸を掘っても容易に水が得られない場所が多いという、水利にとっては厳しい条件を持っていました。
玉川上水だけでは足りなかった
もちろん、江戸時代の人々も手をこまねいていたわけではありません。江戸市中へ水を供給するために開削された玉川上水からは、武蔵野台地の村々へも農業用水などが分水されていました。国分寺村にも「国分寺分水」と呼ばれる水路が引かれ、村の一部を潤していました。
しかし、その恩恵は限定的でした。玉川上水から引ける水の量には限りがあり、また、国分寺分水は比較的低い土地を流れていたため、恋ヶ窪や戸倉といった、より標高の高い台地の上までは水を十分に届けることができなかったのです。わずかな高低差が、水の有無を分ける大きな壁となっていました。
水なき暮らしの厳しさ
水が足りない暮らしは、想像以上に過酷なものでした。
- 飲み水の確保: 深い井戸を掘るのが難しい地域では、人々は遠くまで水を汲みに行かなければならなかったかもしれません。雨水を溜めて利用することもあったでしょうが、日照りが続けばそれもままなりません。日々の生活に不可欠な水を得ること自体が、大きな労苦だったのです。
- 農業への制約: 水が乏しい土地では、水を大量に必要とする稲作(水田)は困難です。必然的に、麦や雑穀などの畑作が中心とならざるを得ませんでした。畑作は天候の影響を受けやすく、収穫も不安定になりがちです。村の石高(米の収穫量で示される経済力)を上げ、より豊かな暮らしを実現するためには、どうしても安定した水が必要でした。新田を開いて耕地を広げたくても、水がなければ絵に描いた餅だったのです。
- 日照りの恐怖: ひとたび雨が降らない日が続けば、畑の作物は枯れ、飲み水さえも脅かされます。人々は空を見上げ、ただただ雨を乞うばかり。水不足は、常に人々の生活と隣り合わせの不安要素でした。
まさに、大地は水を求め、人々は安定した水の供給を心の底から叫んでいたのです。豊かな実りをもたらすはずの大地が、水不足という鎖によって、その可能性を閉ざされているかのようでした。
この、どうにもならないかに思われた状況に、一筋の光を灯そうとする人物が現れます。それが、国分寺村の名主、本多雖軒でした。彼の登場が、この乾いた大地に大きな変化をもたらすことになるのです。
(第2回へつづく)
【第2回予告】 次回は、この困難な状況に立ち向かい、前代未聞の用水開削を決意した中心人物、本多雖軒(本多儀右衛門)に迫ります。彼はどのような人物だったのか? その情熱の源泉とは? どうぞお楽しみに。


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