
■本多雖軒
■ 概要
本多雖軒(ほんだ すいけん/1835〜1916)は、江戸末期から明治・大正期にかけて武蔵国分寺村(現在の東京都国分寺市)を拠点に活躍した医師・教育者・文化人です。
東洋の伝統医学である漢方に加えて、長崎でオランダ医学(蘭学)を学び、地域医療と教育に尽力。明治期には「最勝学校」の教師として多摩地域の青少年教育に大きな影響を与えました。
「学ぶことは人を良くする」という信念を胸に、学問・道徳・地域医療を一体として実践した雖軒の生き方は、現代における郷土教育や医療思想にも静かに影響を与えています。
| 年代 | 出来事 | 写真・資料 |
|---|---|---|
| 1835年(天保6年) | 武蔵国分寺村に誕生。本多家四男、幼名は「為吉」 | 旧本多家住宅長屋門(雖軒の居宅) |
| 1850年代 | 本田覚庵の塾に入門。漢方・朱子学を学ぶ | 師弟関係図・人物相関図参照 |
| 1861年(文久元年) | 長崎に遊学し、オランダ人医師から蘭学(西洋医学)を学ぶ | 長崎の遊学風景イラスト |
| 同年 | 府中宿で開業医として活動開始 | 府中の街並み・当時の地図 |
| 1865年(慶応元年) | 国分寺村に戻り、名主の家「長屋門」を医院として開業 | 現在の長屋門の写真 |
| 1873年(明治6年) | 最勝学校の教師兼校医に就任。人格教育を重視 | 最勝学校跡と武蔵国分寺跡 |
| 1881〜82年 | 「施治患者表」(約324人分の診療記録)を残す | 施治患者表・手稿の写真(模写) |
| 1916年(大正5年) | 国分寺村にて逝去(享年82歳) | 雖軒の肖像・墓所(国分寺市内) |
■ 主な業績・思想の影響
● 医療面での先駆性
- 漢方と西洋医学の融合:当時、極めて珍しい複合的医療を地域レベルで実践。
- 公衆衛生の啓蒙:感染症対策、清潔の重要性、栄養指導など、現代にも通じる地域保健指導を実施。
- 診療記録の体系化:「施治患者表」は郷土医療史における貴重な一次史料として、現代の研究でも活用。
● 教育者としての理念と実践
- 最勝学校での教育活動:人格教育・道徳教育に力を注ぎ、知育だけでなく「人づくり」に尽力。
- 道徳と学問の融合:朱子学や儒教道徳に基づく教育を行いながら、蘭学の実用知識も教えた“融合型教育”を展開。
- 弟子の育成と地域人材の輩出:門下からは多摩地域の教育者・医師など多くの人材が育った。
■ ゆかりの史跡と訪問スポット
| 名称 | 概要 | 所在地 | 写真・見どころ |
|---|---|---|---|
| 旧本多家住宅 長屋門 | 雖軒が診療・生活していた建物。現在は保存施設。 | 国分寺市東元町 | 屋敷外観・内部展示あり |
| 武蔵国分寺跡 | 最勝学校の旧地。現在は資料館・史跡公園として整備。 | 国分寺市西元町 | 石碑・園内散策路 |
| 府中宿跡 | 雖軒が最初に開業した場所。甲州街道沿いに位置。 | 府中市本町周辺 | 江戸時代の町並み再現 |
| 小川新田(小平市) | 妻ちかの実家があり、結婚後一時期滞在。 | 小平市小川町 | 郷土博物館に記録資料あり |
■ まとめ
本多雖軒は「知と徳」「医と教」を融合させた多摩地域の偉人です。
その精神は今も、教育・医療・文化の中に息づいています。
彼の生涯は、過去のものではなく、
“これからをどう生きるか”のヒントを私たちに語りかけています。
