― 家庭、医療、そして教育への覚悟 ―
■ 故郷・国分寺村への帰還
1865年(慶応元年)、本多為吉――のちの雖軒は、人生の大きな節目を迎えます。
それは、小川新田(現・小平市)の名主の娘・ちかとの結婚を機に、故郷・国分寺村へ戻ることでした。
【本多雖軒 年代記】第4回
帰郷と診療 ― 国分寺の“長屋門”から
長崎での遊学を経て、最新の西洋医学を身につけた本多為吉(のちの雖軒)。
文久元年(1861年)には武蔵国府中での開業を果たし、地域医療に力を尽くしました。
しかし、彼の人生の本舞台となるのは、やはり故郷・国分寺村でした――。
■ 慶応元年(1865年)――結婚と帰郷
医師としての実績を重ねていた雖軒は、慶応元年に**小川新田(現・小平市)**の名主の娘・ちかと結婚します。
これを機に、故郷・国分寺村へと戻ることを決意。
江戸末期の国分寺村は、のどかな農村地域。
当時の医療は村医者頼みのもので、漢方中心の治療が主流でした。
そこに「漢方と蘭学の融合」を掲げる若き医師・雖軒が戻ったのです。
■ 長屋門が医院に――診療と学びの拠点
実家・本多家は、代々村の名主を務めてきた家柄。
その長屋門(ながやもん)は江戸期からの立派な建築であり、雖軒はここを住居兼医院として活用します。
厚い土壁、木の格子戸、二階建ての重厚な造り――
この長屋門は、単なる“医者の家”ではなく、やがて村の知と文化の中心ともなる場所でした。
近隣の府中・小平・三鷹、さらには多摩川を越えて町田や八王子からも患者が訪れるようになり、
「雖軒先生の長屋門」は信頼の象徴として語り継がれていきます。
■ 衛生へのまなざし
雖軒は、診察や投薬にとどまらず、地域住民に対して「衛生の大切さ」を説きました。
- 手洗いのすすめ
- 水の清浄さの重要性
- 食と栄養の指導
当時の農村にはまだ「病気は神仏の怒り」と信じる風習も残っていましたが、
雖軒は「原因と予防がある」とする科学的視点を広めていきました。
これは、長崎での経験と、西洋医学の思想があってこそ。
そして、その根底には「村の人々の命を守りたい」という純粋な願いがありました。
■ 家庭を築き、地域に根を下ろす
ちかとの間には複数の子どもが生まれ、家庭生活も安定していきます。
名主の家系同士の結婚は、地域での信頼やつながりをさらに深め、
雖軒は医師であると同時に、村の知識人・リーダーとしての役割も担うようになっていきます。
この頃から彼は、地域の青年たちにも学問や礼儀作法を教えるようになり、
後の「教育者・雖軒」の姿へとつながっていくのです。
📌キーワードと用語
- 長屋門(ながやもん):江戸時代の名主・豪農の屋敷構造。雖軒はここを医院・教育の場とした。
- 衛生思想:近代的な衛生管理の考え方。手洗いや水の安全性などが説かれ始めた時期。
- 公衆衛生の啓蒙:農村部でも衛生の概念を広めた医師は少なく、雖軒の取り組みは先進的だった。
🌸次回予告|第5回「教壇に立つ ― 最勝学校と“学ぶことの意味”」
医師としてだけでなく、教育者としての顔を持ち始める雖軒。
明治6年、国分寺に開校された「最勝学校」にて教師兼校医に就任した彼は、
“人を育てること”に心血を注いでいく――。


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