― 時代の変わり目、命を守る新知識を求めて ―
師・本田覚庵との決別を経て、若き本多為吉(のちの雖軒)は、ひとつの決意を胸に旅立ちます。
向かったのは、幕末の知のフロンティア――長崎。彼にとって、それは医学と時代の最先端に触れる挑戦の旅でもありました。
■ 長崎へ――西洋医学の扉を開く
文久元年(1861年)、為吉は長崎に遊学します。
当時の長崎は、西洋との唯一の窓口として、オランダ商館が残り、医学・軍事・自然科学など、さまざまな分野の「最新」が流れ込む港町でした。
彼が学んだとされるのは、オランダ人医師ボールドウィンのもと。そこでは、解剖学や薬理学、西洋式の治療手法など、日本の従来の医学とは全く異なる体系に触れることになります。
■ 感染症と向き合う最前線
この時期、日本各地ではコレラや天然痘などの伝染病が猛威を振るっていました。特に港町・長崎は感染症の震源地でもあり、医師たちは緊張感の中で日々の診療にあたっていました。
雖軒は、蘭方医学の中に「見えない病原に備える」ための理論と方法を学び、
漢方一筋だったかつての教えとは全く違う“世界の広さ”を痛感したはずです。
この経験が、のちの雖軒の“衛生重視の医療”に大きく影響を与えることになります。
■ 地方医の限界を打破する決意
雖軒は「地方にいても、世界に通じる医学を学べる」と証明したい一心で、貪欲に知識を吸収していきます。
遊学の期間は半年〜1年ほどとされますが、その短さを感じさせないほど、彼の中には多くの「知」と「実感」が刻まれたことでしょう。
長崎で培った“蘭学のまなざし”は、彼の医師としての姿勢を決定づけるものとなります。
■ そして、府中での開業へ
遊学を終えた雖軒は、武蔵国に戻り、**府中宿(現・東京都府中市)**で開業医となります。
この地は甲州街道の要所でもあり、情報や人の往来が盛んな場所。漢方と蘭方を融合させた医療を実践するには、格好の場所でした。
地域医療にとって、最も必要なのは「柔軟さと実効性」。
西洋医学によって得た知識を、“地域の実情”に応じて活かしていく――雖軒の医療哲学の礎が、ここに築かれていきます。
📌用語・キーワード
- 蘭学:オランダから伝わった西洋医学や自然科学の知識体系
- ボールドウィン:長崎に滞在していたオランダ人医師の一人(仮名・伝承的名称)
- コレラ流行:幕末に頻発した大流行病。蘭学医たちは対策の最前線に立った
- 府中宿:甲州街道の宿場町。多摩地域の交通・文化の要所
🌸次回予告|第4回「帰郷と診療 ― 国分寺の“長屋門”から」
新たな知を得た雖軒は、結婚を機に故郷・国分寺村に戻ります。
実家の長屋門を拠点に、医療と教育の拠点を築いていく雖軒。その評判は、多摩地域を越えて広がり始めます――。


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