本多雖軒年代記

【本多雖軒 年代記】第2話|青年期の挑戦 ― 覚庵塾での修行と決別

本多為吉(のちの雖軒)が10代後半を迎える頃、彼は地域の名主であり村医でもあった本田覚庵(ほんだ・かくあん)のもとで修行を始めました。場所は同じ多摩地域にある下谷保村(現在の国立市)。ここで、彼の人生を大きく動かす“師弟の物語”が始まります。

■ 名主医・覚庵との出会い

本田覚庵は、朱子学に通じた厳格な人格者であり、漢方一筋の医師として地域に名を馳せた人物でした。覚庵塾では、漢方医学と儒教道徳を軸とする教えが徹底され、知識だけでなく「人間としての在り方」を学ぶ場でもありました。

為吉は若くして頭角を現し、やがて師の代理として患者の診療を任されるほどに信頼を得ます。まさに将来を嘱望される“若き逸材”でした。

■ 師弟のすれ違い

しかし、万延元年(1860年)頃、ふたりの関係は突然の決裂を迎えます。

雖軒が何らかの理由で塾を離門したとされるこの出来事。詳細は覚庵の日記にも明記されておらず、謎が多く残されています。ただし、後の雖軒の行動から見えてくるのは、“蘭学(西洋医学)への強い関心”です。

覚庵は伝統を重んじる漢方医。一方、為吉はより広い世界、最新の医療知識を求めていました。近代が始まろうとしていた時代、ふたりの価値観は交わらず、ついには別れの時を迎えます。

■ 剣術の師・島田虎之介との関係

この頃、為吉は医学だけでなく剣術にも関心を持ち、府中にあった道場で**天然理心流・島田虎之介(二代目)**に学んでいたと伝えられます。

新選組とゆかりの深い流派を選んだことも、覚庵との軋轢の原因だったかもしれません。新選組副長・土方歳三と親戚関係にあった覚庵にとって、雖軒の“選択”は受け入れがたいものだったのかもしれません。

■ 若き日の意志と反骨

覚庵を離れた後の為吉は、周囲の支えよりも、自らの内なる情熱を頼りに道を切り拓こうとしていました。「もっと知りたい」「世界を見たい」という飽くなき探究心。これが彼を、西へと導いていくのです。


🗺️人物相関図(抜粋)

  • 本多為吉(雖軒) … 覚庵塾の弟子。新知識を求めていた
  • 本田覚庵 … 師匠。漢方一筋の名医。弟子の行動に困惑
  • 青木省庵 … 同門の弟子。雖軒と共に追放処分の経験あり
  • 島田虎之介 … 剣術の師。天然理心流二代目、府中に道場

🌸次回予告|第3回「西へ、西へ ― 長崎遊学と蘭学の衝撃」

決別ののち、為吉が向かったのは“医学の最前線”である長崎。西洋から伝わる知の奔流と、コレラ流行の影が迫る中、若き医師の視界に広がった新世界とは――。

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