本多雖軒年代記

【本多雖軒 年代記】第5回 教壇に立つ ― 最勝学校と“学ぶことの意味”

時は明治――。文明開化の風が吹き、全国各地で“学び”の重要性が叫ばれはじめた頃、
国分寺村でも学校設立の機運が高まりました。
そして明治6年(1873年)、一人の医師が教壇に立ちます。
その名は、本多雖軒。
“医”の道を歩んできた彼が、“教”の道へも足を踏み入れた瞬間でした。


■ 明治6年、最勝学校 開校

学制発布(1872年)によって全国的に小学校設立が進む中、
国分寺村でも住民の熱意と支援により「最勝学校」が開校されました。

校舎の敷地には、かつての国分寺の跡地が活用され、
この地は**“学問の再生”の場**として生まれ変わることになります。


■ 雖軒、教師兼校医として着任

開校当初から村民の信頼が厚かった雖軒は、
教師としては国語・漢学を、校医としては児童の健康を担当しました。

元々、漢籍や儒学に精通していた彼にとって、教育は新たな挑戦であると同時に、
“次世代へのまなざし”をもって取り組む使命でもありました。


■ 教育理念:「学ぶことは人を良くする」

この頃、雖軒が口にしていたと伝えられるのが、
**「学ぶことは人を良くする」**という信念の言葉。

彼が実践した教育の特徴は、

  • 単なる知識詰め込みではなく、人格の陶冶(とうや)
  • 道徳・礼節・勤勉・感謝といった“人としての基盤”の育成
  • 子ども一人ひとりの個性や背景に寄り添う教育姿勢

など、現代にも通じる**“生きる力”を育てる教育**でした。


■ 漢学 × 新知識 の融合

雖軒は、朱子学や孟子といった古典を重視しつつも、
西洋で学んだ観察法・衛生観・合理主義も教育に取り入れました。

たとえば――

  • 水の清潔さが健康にどう関わるかを子どもに教えたり
  • 手洗いを“道徳”としてではなく“実学”として扱ったり

といった形で、古今の知識を組み合わせた教育を実践していたのです。


■ 門弟たちの存在

最勝学校で学んだ若者たちは、のちに地元で医師、教師、村役人などとして活躍するようになります。
彼らにとって雖軒は「ただの先生」ではなく、「人生の師匠」でもありました。

なかには、雖軒の影響を受けて医の道に進んだ者もおり、
多摩地域の医療ネットワークの礎となったとも言われています。


📌人柄が伝わるエピソード

桜餅と漢詩の花見会

春、校庭で開かれた花見の際、雖軒は自ら桜餅をふるまい、
即興で漢詩を詠んで披露したという話が残っています。

硬派な医師・教師でありながら、人情と風流を解する粋な一面を持っていたことが、
地域の人々から長く慕われた理由の一つだったのかもしれません。


📚キーワード

  • 最勝学校:明治6年に国分寺村に開校された学校。地元有志の尽力で設立。
  • 人格陶冶:人格や人間性を練り上げる教育の姿勢。
  • 朱子学:江戸時代の武士教育の根幹をなした儒教思想。雖軒もここに素養を持つ。

🌸次回予告|第6回「地域を診る ― 農村医療と“患者表”の記録」

教育と並行して、医師としての診療活動も続けていた雖軒。
彼が残した「施治患者表」は、当時の農村医療の実態を知る上で貴重な記録です。
次回は、地域医療のリアルと、文化人としての側面にも光を当てます。

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