幼少期の芽吹き ― 国分寺に生まれて
1835年(天保6年)、本多雖軒は武蔵国分寺村(現在の東京都国分寺市)で生を受けました。名主・本多良助の四男として誕生し、幼名を「為吉(ためきち)」といいます。名主という社会的地位を持ちながらも、四男という立場は比較的自由で、自然に囲まれた環境でのびのびと育ったといわれています。
当時の多摩地域は、江戸の外縁部にあたり、農村と宿場町が入り交じる地域でした。幕末の不穏な空気が漂う中にも、村の暮らしは穏やかで、地域のつながりと自然の恵みに育まれた豊かな土地でした。
■ 学びへの目覚め
幼少期の為吉は、学問への感度が高く、地元の寺子屋や郷学で文字を早くに覚え、読書にも熱中する姿が見られたと伝えられています。特に漢籍への関心が強く、漢詩や書の筆にも早くから慣れ親しんでいたようです。
また、ただ学ぶだけでなく、名主の家柄として「地域を背負う責任」や「郷土を愛する心」も育まれていきました。季節ごとに変わる自然の景色、村人たちの働き、そして人々の支え合いの暮らし──為吉少年の視野は、身近な土地のなかで大きく広がっていきました。
■ 家庭と村の空気感
本多家は代々名主を務め、地域の中核をなす存在でした。父・良助は実直で村政に熱心な人物であり、そんな父の背を見ながら、為吉も「人に尽くす」という志を自然に吸収していきました。
兄たちはそれぞれに家業や公務を担い、末子の為吉は時に厳しく、時に寛容な目で見守られていたと言われています。その自由度が、後年の探究心や行動力の源になったのかもしれません。
🌸次回予告|第2回「青年期の挑戦 ― 覚庵塾での修行と決別」
名主の子として育った為吉が、村医であり学者でもある本田覚庵の門下へ。そこで得た学びと、避けられぬ“師弟の断絶”。西洋への憧れが引き起こす波乱の兆しとは──。


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