本多用水 知られざる物語

【第4回】 私財と汗と、村人の絆 ~困難を極めた開削工事~

【第4回】 私財と汗と、村人の絆 ~困難を極めた開削工事~

前回は、本多雖軒(ほんだすいけん)が練り上げた壮大な「本多用水計画」と、その実現に不可欠な幕府への許可申請という高い壁に挑んだ様子をお伝えしました。幾多の困難な交渉や手続きを経て、ついに計画は実行へと移される段階を迎えました。しかし、それは決してゴールではありません。むしろ、本当の意味での試練の始まりだったのです。今回は、用水路を実際に掘り進める工事現場の、想像を絶する苦労と、それを支えた人々の物語に光を当てます。

立ちはだかる巨額の壁 ~工事費用の捻出~

用水路の開削は、現代の公共事業と同様、莫大な費用を必要とします。数キロメートルにも及ぶ水路の測量、土地の確保(場合によっては買収も必要だったかもしれません)、そして何よりも、工事に携わる多くの人々の食費や手間賃、道具代…。これらの費用は、当時の国分寺村の財政規模から見ても、あるいは個人の負担としても、まさに天文学的な数字だったことでしょう。

この巨大な資金の壁に、本多雖軒はどう立ち向かったのでしょうか。記録によれば、彼はこの事業のために、自らの私財を惜しみなく投じたと伝えられています。それは、代々名主を務めてきた本多家の財産を切り崩すことを意味したかもしれません。単なる名主としての責任感を超えた、文字通り「身銭を切る」覚悟がそこにはありました。彼の並々ならぬ決意が、この行動からも窺えます。

もちろん、雖軒一人の財産だけで全てを賄えたわけではないでしょう。用水開削は村全体の悲願であり、多くの村民もまた、資金の提供や、あるいは「普請(ぶしん)」と呼ばれる共同での労働奉仕という形で、この事業を支えたと考えられます。村全体が一丸となって、この難局に立ち向かおうとしていたのです。

大地との格闘 ~人力で挑んだ難工事~

資金の目処が立ったとしても、実際の工事は困難の連続でした。現代のようなパワーショベルもブルドーザーもない時代。頼りになるのは、人の力と、鍬(くわ)や鋤(すき)、土を運ぶ「もっこ」といった原始的な道具だけです。

  • 人力での掘削: 武蔵野台地の関東ローム層は、場所によっては硬く締まっており、掘り進めるのは容易ではありませんでした。来る日も来る日も、男も女も、照りつける太陽の下、あるいは凍える寒風の中で、ひたすら土を掘り、運び出す作業が続きました。
  • 精密さとの闘い: 最も神経を使ったのは、水路の勾配(傾斜)を正確に保つことだったでしょう。わずかな傾きで水を数キロメートル先まで流さなければならないのです。経験豊富な技術者や雖軒自身の指導のもと、細心の注意を払いながら、少しずつ水路は掘り進められました。測量に狂いが生じれば、それまでの苦労が水の泡となる可能性もあったのです。
  • 予期せぬ障害: 工事の途中では、硬い岩盤にぶつかったり、大きな石が出てきたりすることもあったでしょう。雨が続けば、掘った場所が崩れたり、ぬかるんで作業ができなくなったりもしました。自然の猛威もまた、彼らの前に立ちはだかる大きな壁でした。

苦難の中で生まれた絆

この過酷な労働を支えたのは、本多雖軒のリーダーシップと、そして何よりも、共に汗を流す村民たちの絆でした。「この用水が完成すれば、村は豊かになる」「自分たちの手で未来を切り拓くのだ」。そんな想いが、苦しい作業の中での支えとなったのではないでしょうか。

雖軒自身も、ただ指示を出すだけでなく、時には現場に立ち、村民を励まし、共に汗を流したかもしれません。意見の対立や、くじけそうになる心を乗り越え、目標に向かって皆をまとめ上げていく。そこには、強いリーダーシップと共に、人間的な魅力も必要だったはずです。苦しい作業を共にする中で、名主と村民、あるいは村民同士の間に、普段以上の強い連帯感が生まれていたことでしょう。

長く、険しい道のりでした。いつ終わるとも知れない工事に、人々は疲弊し、疑心暗鬼になることもあったかもしれません。それでも彼らは、一鍬一鍬、土を掘り続けました。その先にある、水が大地を潤す光景を信じて。

(第5回へつづく)


【第5回予告】 次回は、ついに歓喜の瞬間が訪れます! 長年の苦労が実を結び、本多用水が完成。水が流れ始め、村にもたらされた計り知れない恩恵とは? 用水完成がもたらした劇的な変化を描きます。

前回は、本多雖軒(ほんだすいけん)が練り上げた壮大な「本多用水計画」と、その実現に不可欠な幕府への許可申請という高い壁に挑んだ様子をお伝えしました。幾多の困難な交渉や手続きを経て、ついに計画は実行へと移される段階を迎えました。しかし、それは決してゴールではありません。むしろ、本当の意味での試練の始まりだったのです。今回は、用水路を実際に掘り進める工事現場の、想像を絶する苦労と、それを支えた人々の物語に光を当てます。

立ちはだかる巨額の壁 ~工事費用の捻出~

用水路の開削は、現代の公共事業と同様、莫大な費用を必要とします。数キロメートルにも及ぶ水路の測量、土地の確保(場合によっては買収も必要だったかもしれません)、そして何よりも、工事に携わる多くの人々の食費や手間賃、道具代…。これらの費用は、当時の国分寺村の財政規模から見ても、あるいは個人の負担としても、まさに天文学的な数字だったことでしょう。

この巨大な資金の壁に、本多雖軒はどう立ち向かったのでしょうか。記録によれば、彼はこの事業のために、自らの私財を惜しみなく投じたと伝えられています。それは、代々名主を務めてきた本多家の財産を切り崩すことを意味したかもしれません。単なる名主としての責任感を超えた、文字通り「身銭を切る」覚悟がそこにはありました。彼の並々ならぬ決意が、この行動からも窺えます。

もちろん、雖軒一人の財産だけで全てを賄えたわけではないでしょう。用水開削は村全体の悲願であり、多くの村民もまた、資金の提供や、あるいは「普請(ぶしん)」と呼ばれる共同での労働奉仕という形で、この事業を支えたと考えられます。村全体が一丸となって、この難局に立ち向かおうとしていたのです。

大地との格闘 ~人力で挑んだ難工事~

資金の目処が立ったとしても、実際の工事は困難の連続でした。現代のようなパワーショベルもブルドーザーもない時代。頼りになるのは、人の力と、鍬(くわ)や鋤(すき)、土を運ぶ「もっこ」といった原始的な道具だけです。

  • 人力での掘削: 武蔵野台地の関東ローム層は、場所によっては硬く締まっており、掘り進めるのは容易ではありませんでした。来る日も来る日も、男も女も、照りつける太陽の下、あるいは凍える寒風の中で、ひたすら土を掘り、運び出す作業が続きました。
  • 精密さとの闘い: 最も神経を使ったのは、水路の勾配(傾斜)を正確に保つことだったでしょう。わずかな傾きで水を数キロメートル先まで流さなければならないのです。経験豊富な技術者や雖軒自身の指導のもと、細心の注意を払いながら、少しずつ水路は掘り進められました。測量に狂いが生じれば、それまでの苦労が水の泡となる可能性もあったのです。
  • 予期せぬ障害: 工事の途中では、硬い岩盤にぶつかったり、大きな石が出てきたりすることもあったでしょう。雨が続けば、掘った場所が崩れたり、ぬかるんで作業ができなくなったりもしました。自然の猛威もまた、彼らの前に立ちはだかる大きな壁でした。

苦難の中で生まれた絆

この過酷な労働を支えたのは、本多雖軒のリーダーシップと、そして何よりも、共に汗を流す村民たちの絆でした。「この用水が完成すれば、村は豊かになる」「自分たちの手で未来を切り拓くのだ」。そんな想いが、苦しい作業の中での支えとなったのではないでしょうか。

雖軒自身も、ただ指示を出すだけでなく、時には現場に立ち、村民を励まし、共に汗を流したかもしれません。意見の対立や、くじけそうになる心を乗り越え、目標に向かって皆をまとめ上げていく。そこには、強いリーダーシップと共に、人間的な魅力も必要だったはずです。苦しい作業を共にする中で、名主と村民、あるいは村民同士の間に、普段以上の強い連帯感が生まれていたことでしょう。

長く、険しい道のりでした。いつ終わるとも知れない工事に、人々は疲弊し、疑心暗鬼になることもあったかもしれません。それでも彼らは、一鍬一鍬、土を掘り続けました。その先にある、水が大地を潤す光景を信じて。

(第5回へつづく)


【第5回予告】 次回は、ついに歓喜の瞬間が訪れます! 長年の苦労が実を結び、本多用水が完成。水が流れ始め、村にもたらされた計り知れない恩恵とは? 用水完成がもたらした劇的な変化を描きます。

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