【第2回】 時代を動かした情熱 – 名主・本多雖軒の実像
前回は、江戸時代の国分寺村、特に台地上の地域が深刻な水不足に喘いでいた状況をお伝えしました。人々は乾いた大地に実りをもたらす「水」を切実に求め、日々の暮らしに苦労していました。この、絶望的とも思える状況に、敢然と立ち向かった人物がいます。それこそが、今回の主役、本多雖軒(ほんだ すいけん)です。
一体、彼はどのような人物だったのでしょうか? そして、何が彼を、前代未聞の用水路開削という大事業へと突き動かしたのでしょうか。今回は、その人物像と情熱の源泉に迫ります。
村のリーダー、本多儀右衛門
本多雖軒は、本名を本多 次郎介 儀右衛門(ほんだ じろうすけ ぎえもん)と言います。「雖軒」というのは、学問を好み、教養を身につけた彼が用いた号(文人などが使う別名)です。彼が生きたのは、江戸時代も後期にあたる[具体的な年代、例:18世紀後半から19世紀前半]。国分寺村で代々名主を務める家系に生まれ、自身も村の**名主(なぬし)**という重要な役職に就いていました。
名主とは、現代で言えば村長と役場の機能を合わせたような存在です。幕府や領主の指示を村に伝え、年貢の取りまとめや村の帳簿管理、村民間の争い事の仲裁、そして村全体のインフラ整備や生活向上を図るなど、その責任は非常に重いものでした。まさに、村のリーダーであり、行政官であり、村民の代弁者でもあったのです。
記録から浮かび上がる人物像
雖軒に関する詳細な個人的記録は多く残っているわけではありませんが、彼が成し遂げた偉業や断片的な記録、地域の伝承などから、その人物像をうかがい知ることができます。
- 強い責任感とリーダーシップ: 名主として、村が抱える最大の課題である水不足から目を背けることはありませんでした。困難な状況を打開するために、自らが先頭に立ち、人々をまとめ、導いていく強いリーダーシップを発揮したと考えられます。
- 先見性と行動力: 単に目の前の問題を解決するだけでなく、用水路を開削することが村の将来にどれほど大きな恵みをもたらすか、長期的な視点を持っていたのでしょう。そして、それを単なる夢物語で終わらせず、具体的な計画に落とし込み、実行に移す抜群の行動力を持っていました。
- 知性と教養: 「雖軒」の号が示すように、彼は単なる実務家ではなく、学問にも通じた知的な人物であったようです。用水路のような大規模な土木事業には、測量や設計に関する知識も必要だったはずであり、彼の知性が計画の実現に役立った可能性もあります。
- 深い郷土愛: 何よりも、生まれ育った国分寺村と、そこで暮らす人々への深い愛情が、彼の行動の根底にあったのではないでしょうか。村民の苦しみを我がことのように感じ、村の発展を心から願う気持ちが、あれほどの大事業を成し遂げる原動力となったのでしょう。
用水開削へ、固い決意
雖軒が用水開削を決意した直接的なきっかけを示す記録は定かではありません。しかし、名主として日々の仕事に携わる中で、水不足に苦しむ村民の姿を目の当たりにし、「このままではいけない」「自分が何とかしなければ」という想いを募らせていったことは想像に難くありません。
それは、単なる思いつきではなく、村の将来を見据えた上での、熟慮の末の固い決意だったはずです。前例のない大事業であり、失敗すれば自らの地位や財産を失うリスクすらあったでしょう。それでも彼は、村の未来のために、その一歩を踏み出すことを決断したのです。
本多雖軒という一人の名主の熱い情熱と固い決意が、国分寺の歴史を大きく動かそうとしていました。しかし、その前途には、幾重もの高い壁が待ち受けていたのです。
(第3回へつづく)
【第3回予告】 次回は、いよいよ本多用水の具体的な計画に迫ります。どこから水を引くのか? どのようにして台地まで導くのか? そして、最大の難関の一つ、幕府への許可申請という大きな壁に、雖軒はどう挑んだのでしょうか。前代未聞の大計画、その詳細に迫ります。


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