晩年の営み ― 医と教の軸、そして“終の刻”
82歳まで現役の医師として地域に尽くし続けた本多雖軒。
その晩年は「医」と「教」の軸をぶれることなく貫いた、静かで確かな時間でした。
本記事では、その最晩年の足跡と、人々の記憶に刻まれた“最後の姿”に迫ります。
■ 地域のリーダーとして
明治後期に入っても、雖軒は国分寺の長屋門にて診療と教育を続けていました。
一線から退くことなく、門人や若者たちに医学や人としての在り方を説き、
村人からは「先生」と呼ばれ親しまれていたといいます。
小さな診療所は、“知のたまり場”でもありました。
ここでは、往診帰りの雖軒を囲んで、門弟や村人たちが話を聞く光景が見られたそうです。
■ 病と闘う最期の日々
老齢を迎えても体力と意志は衰えることなく、
患者を診る日々は続いていました。
しかし大正5年(1916年)、徐々に体調を崩して静養する時間が増えていきます。
それでも最期まで白衣を脱がず、来訪する患者を断ることはなかったと記録されています。
ある門人の証言には、こんな言葉が残されています。
「先生は、自分が病に伏しても、最後の脈を他人に委ねることはなかった」
自らの体調すらも「学びの一部」として捉えていたのでしょう。
■ “診療室の灯”が消える日
1916年、雖軒は自宅兼診療所である長屋門にて永眠。
その報せは、村中を駆け巡りました。
葬儀には近隣の村々から多くの人々が参列し、
「最後に診てもらったのが先生だった」という患者が涙を流していたとも言われます。
その死は単なる「名医の死」ではなく、
地域が一人の師を失ったという**“文化的喪失”**でもありました。
■ 雖軒が遺したもの
医療、教育、文化――
雖軒の人生は三位一体となって地域に根付き、
それぞれの分野で**「人を良くする」**という信念に貫かれていました。
晩年の姿からは、“知の灯”を最後まで絶やさぬ人間の強さ、
そして地元に尽くす誇りと責任感を見て取ることができます。
🌿記憶に残る言葉
「一生、学びの中に生きることこそ、医であり、教である」
雖軒が最晩年、門弟に語ったとされるこの言葉は、
まさに彼の人生を象徴する一句です。
📌キーワード
- 私塾的な診療所:学びと治療が共存する空間。
- 地域医療の象徴:個人であっても“文化”となり得る存在。
- 終の刻:最後まで診療を続けた姿に、人々は敬意を払った。
📝次回予告|第9回「記録と遺産 ― 雖軒が未来へ遺したもの」
次回は、雖軒の生涯で書き記された“施治患者表”などの貴重な記録、
そして弟子や地域社会に残した教育的・文化的遺産について掘り下げます。
その遺産は、どのように現代へと引き継がれているのでしょうか――。


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