本多雖軒年代記

【本多雖軒 年代記】第10回 雖軒をめぐる人びと ― 師、弟子、友の姿

本多雖軒の人生には、多くの“人との出会い”が深く関わっていました。
彼を育て、支え、時に対立しながらも互いに影響し合った人びと。
今回は、そんな雖軒を取り巻く師弟・同志たちの姿に焦点をあて、
人間関係の網の目から、雖軒の人間味と時代背景をひも解いていきます。


■ 師・本田覚庵との確執と影響

雖軒が青年期に師事した人物――それが下谷保村(現・国立市)の名主であり、
医者でもあった本田覚庵です。

  • 漢方医としての厳格な姿勢
  • 儒教倫理に基づく道徳教育

これらを徹底していた覚庵は、若き日の雖軒に多大な影響を与えました。
しかし、西洋医学(蘭学)への関心を持つ雖軒に対して、覚庵は強く反発。

「それは邪道だ。迷うな、為吉。」

師の忠告を押し切り、蘭学修行のため長崎へ旅立つ雖軒。
結果的にふたりは袂を分かつことになりますが、
のちに雖軒が人格教育を重視するようになった背景には、
覚庵の教えが根底にあるのは間違いありません。


■ 同門・青木省庵との連携

覚庵塾には、もうひとり注目すべき人物がいました。
それが青木省庵(しょうあん)――雖軒と同門の弟子です。

雖軒と共に学び、また覚庵の方針とぶつかって一時追放されるなど、
師匠への反骨精神を共有した同志でもありました。

その後の省庵の行動記録は多く残されていませんが、
地域で医師として活動した痕跡もあり、
雖軒と同様、漢方と蘭学の融合を試みた可能性があります。


■ 剣術の師・島田虎之介

雖軒のもう一つの側面として、若き日には剣術にも通じていたことが知られています。

彼が門を叩いたのは、府中にあった天然理心流・島田虎之介(二代目)の道場。
これは奇しくも、師・覚庵が親交のあった新選組・土方歳三の縁戚だったため、
ここでも微妙な人間関係の交差
が見て取れます。

虎之介は自由な気風を持つ剣客であり、
武芸においても型にはまらぬ修行を好んだとされます。
この気風が、当時の雖軒にとって精神的な支えになったのかもしれません。


■ 門弟たちとの絆

晩年に至るまで、雖軒のもとには多くの弟子が集まりました。

  • 医師の卵
  • 書生志望の青年
  • 地元の農家の子どもたち

彼らに対して雖軒は、一様に**「礼節」「誠実」「学び続ける心」を説きました。
教壇の上だけでなく、往診の途中や花見の席、長屋門の縁側など、
あらゆる場面が“教場”であり、弟子たちにとっては
人生の羅針盤**だったのです。


🌿人とのつながりが遺したもの

雖軒の信念は、誰か一人に与えられたものではなく、
さまざまな人との出会いや対話のなかで磨かれていったものでした。

「異なる意見もまた、学びである。」

時にぶつかり、時に励まされ、そして共に笑った記憶の積み重ね。
それこそが、雖軒の“人を育てる力”の源泉だったのかもしれません。


📌キーワード

  • 覚庵との断絶:旧来の価値観と新たな学びの間での葛藤。
  • 同門の絆:青木省庵との共闘と同志意識。
  • 師弟関係:教えることで自らも学び、心を育てる。

📝次回予告|第11回「晩年の営み ― 医と教の軸、そして“終の刻”」

次回は、晩年の本多雖軒がどう地域と向き合い、
医療・教育の現場に立ち続けたのか、
そして静かに訪れた“人生の幕引き”までを追っていきます。

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